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歌は世につれ世は歌につれ

 投稿者:寄川  投稿日:2019年 6月 8日(土)23時00分38秒
  「歌は世につれ世は歌につれ」
新天町で、CD『想い出の流行歌 1962年』『想い出の流行歌 1964年』『想い出の流行歌 1968年』を購入した。小生にとって、十代の最も記憶が残る年だ。
◎『想い出の流行歌 1962年』
①可愛いベイビー②いつでも夢を③赤いハンカチ④霧子のタンゴ⑤レモンのキッス⑥ハイそれまでょ⑦下町の太陽⑧ロコ・モーション⑨島育ち⑩恋は神代の昔から⑪ルイジアナ・ママ⑫若いふたり⑬ふりむかないで⑭琵琶湖周航の歌⑮山男の歌⑯遠くへ行きたい
*一番好きな歌は『下町の太陽』
三井三池闘争、安保闘争等、暗い世相の中で、歌には一途な明るい純粋な想いがある。
小生は一、二位を争う粗っぽい博多の小学校から名士の子弟が通う西新の中学校へと180度環境が変わる。共に強烈で我が人格形成期の60%を占めている。高校・大学で19%、社会人で21%。
◎『想い出の流行歌 1964年』
①明日があるさ②アンコ椿は恋の花③君だけを④愛と死をみつめて⑤君たちがいて僕がいた⑥皆の衆⑦東京の灯よいつまでも⑧お座敷小唄⑨あぁ上野駅⑩学生時代⑪ウナ・セラ・ディ東京⑫ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー⑬東京ブルース⑭夜明けのうた⑮柔⑯幸せなら手をたたこう
*一番好きな歌は『あぁ上野駅』
昭和39年、1964年は東京オリンピックの年だ。神永がヘーシンクに押さえ込まれた瞬間に、日本柔道敗れたりとの諦観で呆然と立ち尽くした。職員室でカラーテレビの実況を見ながら、小生人生最初の挫折、我が柔道は体格・体力の限界と重なり涙滂沱して止まずだった。
37歳から40歳の三年間を家族と大連で過ごした。毎日がハプニングの連続だったが第二の故郷の良き想い出の地として、『あぁ大連駅』に変えてカラオケで歌う。セリフは博多大浜弁。
*大連駅は上野駅、奉天(現瀋陽駅)は東京駅を模して建てられた。
*大濠公園は、杭州の西湖を模して造られた。
◎『想い出の流行歌 1968年』
①天使の誘惑②愛の奇跡③君だけに愛を④恋の季節⑤好きになった人⑥伊勢佐木町ブルース⑦ゆうべの秘密⑧年上の女⑨霧にむせぶ夜⑩あなたのブルース⑪恋のしずく⑫帰って来たヨッパライ⑬思案橋ブルース⑭エメラルドの伝説⑮花の首飾り⑯三百六十五歩のマーチ
*一番好きな歌は『霧にむせぶ夜』
高校一年生の夏休み剣道部暑稽古の後、図書館で日中友好商社を開設経営する野望を立てた。しかしながら、上京して経済学部xxx学科60名の学び舎で貿易を学んで会社設立への、先ずは第一歩の大学受験が桜散った。
『霧にむせぶ夜』の「涙じゃないよと言いたいけれど こらえてもこらえてもまつ毛がぬれる…」が、桜散った挫折の心情と重なり、今も高校時代の最も辛い追憶だ。

写真1)博多貿易港大浜
生まれてから中学二年まで過ごした、自宅から歩いて三分の博多貿易港内航船側。埋め立てで埠頭がわずかに北に移動したが、昔と一緒の景色だ。
写真2)百道浜海岸
中学三年間を過ごした百道海水浴場、埋め立てで砂浜が大幅に北に移動したが、昔と一緒の景色だ。
写真3)今津海岸
文永11年(1274年)「文永の役」を経て、建治2年(1276年)今津の浜から香椎宮の博多湾の約20kmに石築地(いしついし)を築き万全の陣を布いた。今も、砂浜の松林の中に風化されながらも残る1kmと復元整備された200mの石築地防塁跡は壮観だ。
*詳細は、Home Pageのトピックス『18年11月2日 史跡元寇防塁跡を?く 令和元年5月掲載 福嶋記』を参照。
 
 

転職しました

 投稿者:藤岡 良幸  投稿日:2019年 6月 2日(日)10時25分0秒
  今年3月末で5年間勤めていた東筑紫短期大学を定年で退職しました(退職時の職名:准教授)。4月1日から、行橋市にある市の生活困窮者自立支援委託事業所「ゆくはし生活相談センター」の相談支援員(常勤)として勤めています。また、看護学校や通信教育専門学校の非常勤講師等も務めており、相変わらず忙しい毎日を送っています。大学時は土曜日に授業が入っていたため同窓会行事に参加することが難しかったのですが、今は土・日・祭日が休みになったので参加が可能になりました。  

坂本八幡神社旅人歌碑

 投稿者:城戸寛  投稿日:2019年 5月 2日(木)20時02分16秒
  坂本八幡神社旅人歌碑(巻八 一五四一)

わが岡に
さ男鹿来鳴


初萩の花嬬問ひ
に来鳴く
さ男鹿

太宰帥
 大伴旅人


<意味>

わが家近くの岡に
男鹿が来て鳴いている
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ

<解説>

「花嬬(はなづま)」とは萩の花のことで 鹿がいつも萩に寄り添うことから萩の花を鹿の妻だと見立ててこのように呼ぶ

旅人は大宰府に赴任してきてすぐに妻(大伴郎女)を亡くして、妻問いに鳴く男鹿に自身の姿を重ねたのかもしれません

<写真>

太宰府市坂本八幡神社 歌碑 城戸寛 書
 

HP移行のお知らせ

 投稿者:髙田  投稿日:2019年 3月31日(日)08時50分38秒
  4月1日から21回生ホームページは下へ移行いたしました。

http://chikushigaoka21.greater.jp/

登録されていない方は登録をお願いいたします。
 

福岡に戻りました。

 投稿者:本吉照行  投稿日:2019年 1月 6日(日)16時19分5秒
  高校卒業以来、京都、西宮、神戸と関西エリアで過ごしてきましたが福岡へ戻りました。飲み会、誘ってください。080-1425-6353  

「啄木を尋ねて」

 投稿者:寄川  投稿日:2018年12月15日(土)11時01分3秒
  「啄木を尋ねて」
先般、同窓仲間達で二次会は一組大取君「オオトリ酒店」に参集した。皆、人生の風雪を経て自然と石川啄木を詠む運びとなった。難病にマケズにいる農学部入学、国文学科?卒の関君、主役を欠く中では、滔々とした歌の流れには至らなかった。早速、歌集を購入した。就職で、故郷を出でて十数回の引越、東京・横浜・大阪…北京・成田・大連…山口宇部の異郷・異国での生活を振り返ると、石川啄木の「ふるさと」「父母」の歌がやはり胸に沁みいる。

*『新編啄木歌集 久保田正文編』(岩波文庫 2007年7月25日 第18刷発行 800円+税)より抜粋。転記誤謬はご勘弁を。
*石川啄木 明治19年(1886年)~明治45年(1912年)、岩手県岩手郡日戸(ひのと)村生まれ渋民村育ち、盛岡尋常中学中退、…小石川区久堅(ひさかた)にて肺結核で26歳の生涯を閉じる。

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき
いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに
砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日
いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ
目さまして猶起き出でぬの癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな
たはむれに母を背負ひて そのあまりの軽きに泣きて 三歩あゆまず
こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ
なみだなみだ 不思議なるかな それをもて洗へば心戯けたくなれり
「さばかりの事に死ぬるや」 「さばかりの事に生くるや」 止せ止せ問答
手も足も 室いっぱいに投げ出して やがて静かに起きかへるかな
こころよく 人を讃めてみたくなりにけり 利己の心に倦めるさな
この日頃 ひそかに胸にやどりたる悔いあり われを笑はしめざり
実務には役に立たざるうた人と 我を見る人に 金借りにけり
それもよしこれもよしとてある人の その気がるさを 欲しくなりたり
気の変る人に仕えて つくづくと わが世がいやになりにけるかな
人並みの才に過ぎざる わが友の 深き不平もあはれなるかな
誰が見てもとりどころなき男来て 威張りて帰りぬ かなしくもあるか
はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
とある日に 酒をのみたくてならぬごとく 今日われ切に金を欲りせり
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ
顔あかめ怒りしことが あくる日は さほどにもなきをさびしがるかな
男とうまれ男と交り 負けてをり かるがゆゑにや秋が身に沁む
わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く
誰そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤のごとく死にて見せなむ
己が名をほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術なし
その後に我を捨てし あの頃はともに書読み ともに遊びき
石ひとつ 坂をくだるがごとくにも 我けふの日に到り着きたる
夢さめてふつと悲しむ わが眠り 昔のごとく安からぬかな
ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
やまひある獣のごとき わがこころ ふるさとのこと聞けばおとなし
ふと思ふ ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを 三年聴かざり
ふるさとの かの路傍のすて石よ 今年も草に埋もれしらむ
かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川
あはれかの我の教へし 子等もまた やがてふるさとを棄てて出づるらむ
ふるさとを出で来し子等の 相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし
石をもて追はるごとく ふるとさを出でしかなしみ 消ゆる時なし
やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
ふるさとに入りて先づ心傷むかな 道広くなり 橋もあたらし
ふるさとの山に向かひて 言ふことなしに ふるさとの山はありがたきかな
いつしかに 泣くといふこと忘れたる 我泣かしむる人のあらじか
汪然として ああ酒のかなしみぞ我に来たれる 立ちて舞ひなむ
かくばかり熱き涙は 初恋の日にもありきと 泣く日またなし
長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く
うらがなしき 夜の物の音洩れ来るを 拾ふごとくさまよひ行きぬ
旅の子の ふるさとに来て眠るがに げに静かにも冬の来しかな
たのみつる年の若さを数えみて 指を見つめて 旅がいやになりき
わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな
函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
こころざし得ぬ人々の あつまりて酒のむ場所が 我が家なりしかな
若くして 数人の父となりし友 子なきごとく酔へばうたひき
さりげなき高き笑ひが 酒とともに 我が腸に沁みにけらしな
しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひょ
負けたるも我にてありき あらそひの因も我なりしと 今は思へり
あらそひて いたく憎みて別れたる 友をなつかしく思ふ日も来ぬ
酒のめば鬼のごとくに青かりし 大いなる顔よ かなしき顔よ
寂寞を敵とし友とし 雪のなかに 長き一生を送る人もあり
顔とこゑ それのみ昔に変らざる友に会ひき 国の果にて
酒飲めば悲しみ一時に湧き来るを 寝て夢みぬを うれしとはせし
死ぬばかり我が酔ふをまちて いろいろの かなしきことを囁きし人
十年まへに作りしといふ漢詩を 酔へば唱へき 旅に老いし友
かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど
山の子の 山を思ふがごとくにも かなしき時は君を思へり
ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に
かの旅の夜汽車の窓に おもひたる 我がゆくすゑのかなしかりしかな
いつも来る この酒みせのかなしさよ ゆふ日赤赤と酒に射し入る
今日よりは 我も酒など呷らむと思へる日より 秋の風吹く
わが友は 今日も母なき子を負ひて かの城にさまよへるかな
どうなりと勝手になれといふごとき わがこのごろを ひとり恐るる
なつかしき 故郷にかへる思ひあり 久し振りにて汽車に乗りしに
新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど
考へれば ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し 煙管をみがく
正月の四日になりて あの人の 年に一度の葉書きも来にけり
人がみな 同じ方角に向いて行く それを横より見てゐる心
何となく明日はよき事あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る
過ぎゆける一年のつかれ出しものか 元日といふに うとうと眠し
百姓の多くは酒をやめしといふ もっと困らば 何をやめるらむ
自分よりも年若き人に 半日も気焔を吐きて つかれし心
「石川はふびんな奴だ。」 ときにかう自分でいひて かなしみてみる。
寝つつ読む本の重さに 疲れたる 手を休めては、物を思へり
ふるさとを出でて五年、病をえて、かの閑古鳥を夢にきけるかな
今日もまた胸に痛みあり 死ぬならば ふるさとに行きて死なむと思ふ
猫を飼はば、その猫がまた争ひの種となるらむ。かなしきわが家。
やまひ癒えず、死なず、日毎にこころのみ険しくなれる七八月かな。
ただ一人の をとこの子なる我はかく育てり。父母もかなしかるらむ。
夢はかくて恋はかくしてはかなげに過ぎなむ世とも人の云はば云へ
砕けてはまたかへしくる大波のゆくら?に胸おどる洋。
ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は瘦せにき

写真)
筑後の嫁さんと博多貿易港大浜出の小生で
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
「しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひょ」
「ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に」
「砕けてはまたかへしくる大波のゆくら?に胸おどる洋。」
・・・
啄木を尋ねての旅へ。
そして、今は大塚博堂の《娘をよろしく》の歌が胸に沁み入る。
「…娘をよろしくと言われた時から 君の涙と父の愛が 僕の胸に熱く 何もない僕だけど 君を幸せに そして大事な娘を 僕の妻に…新しい人生が始まっていた…」

 

写真3

 投稿者:松本 收  投稿日:2018年 9月24日(月)21時50分31秒
  写真  

写真2

 投稿者:松本 收  投稿日:2018年 9月24日(月)21時48分58秒
  写真  

写真

 投稿者:松本 收  投稿日:2018年 9月24日(月)21時47分1秒
  写真  

続き

 投稿者:松本 收  投稿日:2018年 9月24日(月)21時25分28秒
  写真  

続き

 投稿者:松本 收  投稿日:2018年 9月24日(月)17時19分56秒
  誤送信しました。
めったに通らない昔の道を仲間たちと歩くのは懐かしくていいですね。
15時に今日の目的地の麺処かわべに着くと、小西、高田、岩本、木村、安永、瀬戸口、鳩谷、関親子も集合していて、美味しいビールで乾杯。店主の川辺君の美味しい料理と持参の銘酒で宴は盛り上がりました。平日の昼からの宴は現役時代では考えられなかったけど、みんな好爺好婆になったんだと確信しました。この会を企画してくれた幹事さん、お店を提供していただいた川辺一家に感謝いたします。
 

歩いて飲んで楽しんで

 投稿者:松本 收  投稿日:2018年 9月24日(月)16時28分52秒
  一年前から毎週金曜日13時に福岡パルコ前に有志が集合して福岡を歩く会をしているそうで初めて参加しました。どこを歩くのか楽しみにしていると突然の雨。するとリーダーが元ショッパーズプラザの地下におりそこから最上階まで往復し地下街へ。帽子にサングラス、シューズにリックを背負ったいでたちで風のように地下街を歩く我々は奇異にみえたことでしょう。外に出るとアクロス福岡でちょうど雨も上がり地上を歩いた。中洲の川沿いをキャナルシティ―を見ながら歩き住吉神社で参拝して近くのコンビニで休憩。そこから簑島商店街辺りを歩き筑肥線跡の道を歩いていると簑島駅を発見。めったに通らない道を歩く

http://国鉄時代の

 

さくらさくら

 投稿者:髙田  投稿日:2018年 3月28日(水)17時21分10秒
  桜が満開ですね。関東には後れをとりましたが、高齢者が待ちに待った春本番の到来です。
景色を明るく一変させる桜、サクラサクラと気持ちもウキウキして来そうです。
3月27日街歩きで西公園から舞鶴公園を巡りました。一人だけ足取りが重かったのがいましたけど。
どちらも春休みだったせいもあるのでしょうが屋台や弁当広げて賑わっていました。
花見と言えば一杯だけど、高齢者男4人は角打ちでおわりました。
 

舞鶴公園の梅園

 投稿者:髙田  投稿日:2018年 3月28日(水)17時04分45秒
  毎週火曜日の街歩きに2月27日参加し、舞鶴公園梅園に。
今年は冬の寒さが影響し、梅の開花は遅れました。しかし春は一気に来ましたね。
7分咲きくらいでしたでしょうか、赤・ピンク・白と色とりどりの梅の花が城跡と都会を背景に映えていました。
 

「武士の末裔としての矜持」

 投稿者:寄川  投稿日:2018年 3月 2日(金)22時36分51秒
  「武士の末裔としての矜持」
《九州・山口不平士族の反乱》
明治7年(1874)    江藤新平 「佐賀の乱」
明治9年10月24日 熊本敬神党 「神風連の乱」
同年10月27日      旧秋月藩士 「秋月の乱」
同年10月28日   前原一誠  「萩の乱」
明治10年(1877)2月 西郷隆盛  「西南戦争」
同年3月28日   武部小四郎、越智彦四郎 「福岡の変」

◎高校時代、「秋月の乱」の末裔としての矜持を抱いている仲間がいた。偉丈夫で、眼光が鋭く、さっぱりした性格で侍の雰囲気を醸し出していた。何よりも小生が敬服したのは、末裔の誇りとして、生活費・授業費は自分で稼ぐ信念のもとに新聞配達をずっと続けていた。
◎行實君、秋月藩の末裔。宝満山に月何回も登っている登山愛好家だ。数年前、甘木古処山859.5mにOB・OG数人で登った時に、古処山から望む「筑前の小京都」秋月藩についての歴史・地理・背景等の詳しい説明を受けた。行實君は、稲永君と共に酒宴でいつも特上の日本酒、先般も佐渡の名酒「北雪」を提供してくれた。
*『第28作 男はつらいよ 寅次郎紙風船 昭和56年12月29日封切り』は秋月がロケ地、音無美紀子・岸本加世子がマドンナで、昔の鄙びた秋月を回顧出来る。
◎十年前、西日本新聞の文化面一面に「福岡の変」の遺品約千点を福岡博物館に寄贈する記事と共に、首謀者の一人武部小四郎(*父の代に建部から武部に改名)と武部自一君の写真が載っていた。自一君は小四郎の五代末裔の事実を知り驚嘆した。武部小四郎の鉢巻き姿と言えば、新撰組副長土方歳三、大隈重信を襲撃して自害した来島恒喜に勝るとも劣らない凛々しい美剣士だ。
*『博多博学200』 2014年3月6日 西日本新聞社発行 2,000円+税
68p-69p「 福岡の変」 武部小四郎・自一君等につき記載。

参考)
*『日の名残り』カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞作家の代表作 ハヤカワ文庫より抜粋。
ミス・ケントンはしばらく黙り込みました。そして、こうつづけました。
「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。…そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生を━考えたりするのですわ。…結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並みの幸せはある、もしかしたら人並み以上かもしれない。早く、そのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」

写真1) 角君挙式時、右から武部、角、寄川 『西郷隆盛ゃ おいらの兄貴…』薩摩おはら節を熱唱。
   武部君については、武部・碇…vs 須珂内・三津井・寄川…で意識していた。即ち、
   中学が貫線西公園駅下車、桜の西公園、唐人町商店街のFutyu 校歌『南にそびゆる背振山 気高き姿仰ぎつつ 北に打寄す玄海の…』 vs 同西新駅下車、松原の百道海水浴場、西新商店街のSWJ 校歌『岸を洗ふ紺碧の波 松の緑青春の色 希望の輝き…』。
      夏服は、半袖の白の開襟シャツ、胸ポケットに万年筆、小倉織の灰色のズボン、帽子に日よけの白のキャップ、中学生の身体には大きな白い雑嚢と、同様のハイカラな恰好だった。
   上記の連中がFutyu & SWJを各々代表していて、やはり共に一筋縄ではいかぬ出身かな。
写真2)筑紫丘高校21回生卒業記念樹
写真3) 福博の街は「庶民の店の庶民の味を満喫できる 檀一雄『美味放浪記』」
   昼間に、一次会は舞鶴一丁目の「魚旬」でカウンター越しに握る長浜寿司1,000円。二次会は大名の角打ちで名酒と佳肴1,000円~2,000円を堪能する。合わせて2,000円~3,000円で四時間を「安くて美味しい」故郷を仲間達と味わうと、人生この上なし
※写真は昨年12月2日「魚旬」と大名の角打ち
 

博多旧町名碑散策

 投稿者:稲永  投稿日:2018年 2月19日(月)21時15分30秒
   福岡市博多区は133町名程あったのが、1966年(昭和41年)町界・町名整理事業を実施して24新町名に整理統合された。旧町名を懐かしむ方々の思いが、1975年(昭和50年)廃止になった市内電車の軌道敷石を活用して旧町名碑を設置する活動となり、1981年(昭和56年)に石碑40基が設置され、2005年
(平成17年)に15基が追加設置された。現在、地域の再開発等で石碑が撤去されたり、破損しているものもある。石碑は初期の幅狭縦長の肌色の碑と幅広で灰色の碑が2種類ある。

H30.1.9(火)第1回目(寄川、高木、稲永)
 櫛田神社を出発し明治通りを横断して博多座横を抜け昭和通りを横断し奈良屋地区を散策。回った石碑は
 旧櫛田前町、旧下土居町、旧綱場町、奈良屋番、旧蔵本町、奥小路、旧萱堂町、旧古渓町、旧西方寺前町、旧行町、旧浜小路町

H30.1.30(火)第2回目(寄川、高木、稲永)
 天神パルコ前を出発し、国体道路を通り中洲大通りを北へ行き築港から大浜地区を散策。回った石碑は
 旧中島町、旧浜新町、旧萱堂町、旧鏡町、旧横町、旧下竪町、旧上金家町、旧中浜口町、旧上竪町、旧蓮池町、旧東町、旧上浜口町、旧中石堂町

H30.2.13(火)第3回目(寄川、高木、高田、稲永)
 天神パルコ前を出発し、明治通りを呉服町から大博通りを抜け、御供所地区を散策。回った石碑は
 旧東町、旧西門町、旧中小路、旧普賢堂、旧魚町、旧北船町、旧金屋小路、旧桶屋町、旧奥ノ堂、旧赤間町、旧竹若町、旧箔屋番、旧川口町
 

親友(だち)の見える風景

 投稿者:  投稿日:2018年 2月11日(日)00時34分48秒
  「親友(だち)の見える風景」
遠い昔の海辺の風景の中に君が見える
明るい午後の日差しの中に君が見える
一末の寂しさを持て余し酒に酔う君がいる
友との雑談(はなし)に我が身を置きにくる
雑談(はなし)の中に友人(ひと)の寂しさを探しに来る
いつしか君は雑踏の中に消えてゆく
一閃の君はまた雑談の中に我が身を置きに来る
故郷を探しに、そして友を探しに我が身を置きに来る
                       田舎もん記す
 

「青春の蹉跌と剣道」

 投稿者:寄川  投稿日:2017年12月22日(金)22時50分2秒
  「青春の蹉跌と剣道」
歳月を追って以下の通り。
① 中学時、柔道をかじっている時、でかいのが仕掛けてくる背負投げ・一本背負いを防ぐ手立てが無かった。身体が一回転して叩きつけられる屈辱だった。博多貿易港大浜の荒っぽい小学校の四年・五年・六年の三年間全て、小兵なので潜って右下手投げと足技で横綱を張り博多四小(大浜・奈良屋・御供所・冷泉小学校)対抗戦に横綱で出場したのに、柔道では体格・体力差の現実をまざまざと見せつけられた。
② 中学二年時の後半に、親父の仕事の都合で故郷博多貿易港大浜から春日原の進駐軍ハウスに引っ越した。高校は、大浜から歩いて15分前後の福岡高校を目指していた。楽観主義の小生は、学区制を知らずで、後の祭りだった。
③ 「想えば遠くへ来たもんだ」の寂寥感と、自分と家族を守る為の柔道の挫折から剣道部に入った。高一の夏休み強化練習後に、高校生活の意義は将来日中友好商社を開業する事、その為には先ず大学は上京して経済学部xx学科60名の枠を目指すことに決めた。指定科目の「英語」「数学Ⅰ・ⅡB」「現国・古典Ⅰ*漢文・古典Ⅱは無し」「世界史」「選択の化学」に高一の夏休みから完全に絞った。結果は、桜散り、親父との約束で傘張りしたら地元残留を受け入れざるを得なかった。
④ 大学生活の意義を将来の日中友好商社開業の為に、福岡の日中国交回復運動の窓口との交流、中国語に見出した。及び大学の在籍は剣道部だった。就職活動時は、「諸悪の根源は商社」の時代だったので、中国駐在の為の別ルートを目指した。戦後の日中国交正常化の民間人・経済界での最大の貢献者は高碕達之助・岡崎嘉平太の両氏だった。岡崎さんが元社長・現相談役だった企業を受験した。岡崎さんは、周恩来首相とも昔からの親友であり、1975年には当社が大阪・福岡/上海・北京路線・事務所の開設、中国でのホテル展開が事業計画の目玉だった。政府の許認可権の厚い壁には勝てず、結局35歳の折に、米国政府の外圧で日米両国相互に二社以上の米国路線の開設と共に、大連・北京路線・事務所等の新設許可の承認が下りた。そして、小生は北京の中国人民大学に一年間語学留学で派遣された。退社、独立して日中企業設立を成す年齢には時遅しだった。
*入社して四年間の東京勤務、横浜住まいで、最初の二年間は渋谷の「松本亨英語学校」、その後は神田の「日中学院」に学んだ。併せて、剣道・軟式野球・テニス・葉山のヨット・スキー・スケート等で適度に鍛えて日中友好商社設立の野望に備えたが…
その後、私的挫折と試練を⑤東京で20代半ば過ぎ、⑥大阪で30代前半、⑦東京で50歳を迎える直前に味わった。

①②③④⑤⑥⑦の大きな荒波に、耐え難きを耐え忍び難きを忍んだら、50歳時に待望久しい故郷に戻してくれた。欣喜雀躍するとどんでん返しを幾度となく体験してきたので、帰郷以降は、一日、一時間でも故郷に居る事に心の中で感謝している。毎週一回は両親、その後も今も健在のお袋の家を訪ねて、親孝行の真似事をしている。日中友好商社開業の夢は達成できなかったが、故郷で下手な中国語を通して、中日の若人と交流が出来て気持ちが若やいでいる。それでも、この至福の期間の⑧63歳時に、非結核性抗酸菌症の肺の病気を患い、細菌の摘出手術を受けた。体にメスを入れたので体力が大幅に落ちた。

そして、今、日々博多湾・玄界灘を一望して、週一回は普通に博多ごぼう天うどん350円・博多ラーメン290円・博多おきゅうとの採れたてを食して、月一回は自らの博多もつ鍋・博多水たきの手料理に日本酒の名酒で一杯復一杯と。

写真1)高校剣道部
中学時代の実力者で鳴り物入りの成末君から、初心者の小生は懇切丁寧に手ほどきを受けた。経験者達からボコスカ打たれたので、お礼に練習後、柔道場で経験者皆に相撲か柔道かでの勝負を申し込んだ。いつも応えてくれたのは不承不承とは言え心優しい成末だけだった。成末に恩返しをすべく、彼が憧れの君に対して①修旅時の写真を貰った。②廊下ですれ違いざまに鉢合わせ紹介をさせた。③昼休みに図書館の前の芝生で、相撲で彼を倒して、柔道の袈裟固・縦四方固で疲労困憊の抵抗できない状態にした。その後で、ワイシャツを脱ぎ取り、午後の授業開始のベルと同時に、憧れの君のクラスの教壇に学生服とワイシャツを置いて来て、取りに行かせた。青春の悪戯な事をしたものだ。

写真2)大学剣道部新人合宿の食事時
左から四人目成末、真ん中寄川、右から三人目田中

写真3)会社武道大会、毎年一回、場所は東京・大阪交互に、柔道・剣道・空手・合気道・少林寺拳法・居合抜きの東西対抗戦を開催。
右から四人目寄川、七人目高校剣道部二級上の左田野先輩
*元日本柔道チャンピオンT氏が招待されて、当社の精鋭五人掛かりをいとも簡単に続けざまに大技で投げた。凄いと言うよりも実に美しかった。
*岡崎嘉平太さんが、社員の健壮な身体・精神の育成を目的として建てられた羽田整備場地区の立派な武道場へ初めて練習に行った時に、筑紫丘高校剣道部二年先輩の左田野さんに邂逅した。「砂漠のような東京で」オアシスを探し当てた。
 

歌は世につれ、世は歌につれ

 投稿者:寄川  投稿日:2017年11月12日(日)22時16分30秒
  大連駐在の帰郷時にお袋に言った、「五歳と三歳の娘が会社から貸与されとうカラオケで歌うとは、「『…人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの…いまかがやくのよ私たち いまとびたつのよ私たち…。』参っちゃうよなー。」
お袋応えて曰く、「お前も同じん年ん頃は*『お富さん』ば、よう歌っとったばい。」
*『お富さん』 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の洗い髪 死んだはずだよお富さん 生きていたとは お釈迦様でも知らぬ仏の お富さん エッサオー 源冶店…かけちゃいけない 他人の花に 情けかけたが身の運命 愚痴はよそうぜお富さん せめて今夜は さしつさされつ 飲んで明かそよ お富さん エッサオー 茶わん酒…

最近、新天町で*『三橋美智也民謡ベスト CD二枚組』と**『想い出の流行歌 1964年』を買った。
*三十曲中、九州の民謡は黒田節、刈干切唄、鹿児島おはら節、炭坑節、ひえつき節、五木の子守唄。
**明日があるさ、アンコ椿は恋の花、君だけを、愛と死をみつめて、君たちがいて僕がいた、皆の衆、東京の灯よいつまでも、お座敷小唄、あぁ上野駅、学生時代、ウナ・セラ・ディ東京、ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー、東京ブルース、夜明けのうた、柔、幸せなら手をたたこう。

写真1)昨年10月22日第13回21回生同窓会後、二次会のカラオケスナック「風子」にて
写真は中村、小西、木村、瀬戸口、熱唱者は秋月藩の末裔としての矜持を抱く行實。
*「男はつらいよ 寅次郎紙風船」で、秋月がロケ地、音無美紀子、岸本加世子がマドンナだ。
*当店常連の愛唱歌は、稲永「赤いハンカチ」、大浦「俵星玄蕃」、木村「サライ」、小西嬢「愛のままで」、田所嬢「旅人よ」、福嶋「昴」、寄川「あぁ上野(大連)駅。」

写真2)中国共産党幹部、故周恩来首相等の避暑地、大連棒垂島にて。ハンガリーアンディ家族と我が家族。
日曜日の一時の夜、日本酒は日本の価格の四倍もするのでアルコール度数60度の当地の白酒を生で、或いは低価格のバーボンFour Rosesを味わいながら、カラオケで娘たち「人生いろいろ」、筑後の嫁さん「時代 …喜び悲しみくり返し…旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を…」、小生「無法松の一生 度胸千両入り」で安らいだ。

写真3)瀋陽(旧奉天)駅で親父、家族と
棚田君が、10月17日付のe-mail「防衛省」でお父上の海軍等を語っていた。
小生の親父は、五男二女の一番下だ。五男全てが上海事変から太平洋戦争まで参戦している。終戦間際に長男と四男が海軍で戦死した。親父は陸軍で、満州帝国とソ連の国境沿いに参戦した。大連から当地迄、往復一週間はかかり休みが取れないので、一泊二日で当奉天(現瀋陽)を案内した。
三女二男の長女のお袋は、叔父が長崎大学の理学部の研究室で学生達と、奥さんと息子二人は家で被爆して即死。原爆投下の翌々日、福岡から安否を尋ねに行ったお袋の従兄も、その後終生難病と闘う。もう一人の叔父は、シベリア抑留のほぼ最後の帰還者で、本当に優しい人だったが60歳前後で亡くなった。
 

福岡Hawks優勝に思う

 投稿者:寄川  投稿日:2017年11月 5日(日)13時20分9秒
  「福岡Hawks優勝に思う。」
昨夕福岡ドームでの第六戦、小生は天神のソラリア西鉄ホテルでの中学全体同窓会に参加していた。司会者が二回の裏に松田のホームランで1-0を案内した途端に、700名前後の参加者全員が「ワーッ」と言う雄叫びとなった。五回の表ホームランを打たれ同点になったアナウンスをしたら、皆水を打ったように静まり返った。ホテルでは、日本酒を提供しないし寿司・そば以外は脂っこい料理ばかりなので、式途中だが酒豪四人で仲間達と別れを告げて大名の角打ちに行った。若い人が多く飲みに来ていて、3-1のTV中継に静かに見入っていた。九時閉店なので、重苦しい気持ちで帰宅したら、九回裏3-2だった。バーボンのストレートを飲みながら、TV実況の結末を苦々しく味わうことになるなと思っていた。ワンアウト後、内川が起死回生のホームランで同点として敵の流れを止めた。後は、押せ押せで川島の適時打で優勝と。娘と何回も大きな声で万歳をした。今朝までに、何度となく優勝の場面を見ているが、感動は尽きず。
活躍した内川・今宮、川島は大分、長崎出身。敵方の横浜で目立った、濱口・宮崎、今永もやはり佐賀、北九州出身の九州男児・人だ。最優秀選手のサファテは日本球団の3球団目だが、熱い・厚い九州・福岡の地に男気を感じている。張本さんが『喝』で「第五戦は工藤監督の采配ミスがあったが、このチームは苦難の時に明るく団結する素晴らしいチーム」と褒め称えた。小生、50歳で故郷福岡に転勤させて貰って以来、常に九州・福岡の熱い・厚い土地柄を改めて味わえて幸せであり誇りだ。
福岡Hawksと言えば、やはり西鉄ライオンズを想う。小生、数多くの無料講演会を拝聴したが、感銘を受けたのは美輪明宏さんと稲尾和久さんだ。約20年前の稲尾さんの講演会で今も憶えているのを五つに要約すると以下の通り。
◎小中学の折に、父親と夜一本釣りでの生計の為に、櫓をこぐとともに舟に石を積んで別府湾に投げて肩を鍛えた。
◎早朝、釣った魚を料亭に出した。貧しかったので母親が残った骨を貰ってき来て粉砕してふりかけにして食べた。お陰で骨太の身体に成った。
◎同期のエリート小倉出身畑の契約金はテープにうず高く積まれた。他方、家で提供された契約金は薄っぺらだった。貧乏だったので、母親が初めての大金に大喜びした。畑に闘争心を燃やして親に恩返しをしようと決意した。
◎最初はバッティング投手から始まった。当時は、身を守る防御ネットがなかった。豊田泰光さんのバッティング投手の時に、豊田さんが休んでいると思い、自分も休もうと思い程々或いはボール球を投げた。そうすると、物凄い命が縮むピッチャー返しを打たれた。豊田さんとは、一球も気が抜けない真剣勝負の緊張の中で、針の穴を通すコントロールを磨けた。
◎王さんは真面目で考え抜く人なので対応し易かった。長嶋さんは、こちらが考え抜いても打たれる。或る日、長嶋さんは動物的天性と宇宙人で何も考えていなくて、対処方法を考える事が無意味だと悟った。それからは、球を離す瞬間に、長嶋さんの動きを見て対応したら打たれなくなった。野村さんが一番の強敵だった。あの人は、九回全ての戦局を考えていた。流れの無い所で三振を取った球種を大事な局面で同じ球を投げたら、ホームラン・強打された。大事な場面で、わざと打てなかったと見せた球を投げさせて勝利に導いた。凄い人だと。

*『鉄腕伝説稲尾和久 西鉄ライオンズと昭和』 西日本新聞社 2007年12月3日発行 952円+税 から抜粋
「福岡市・唐人町にあった寮の玄関に唐草模様の風呂敷包みを提げて立った青年の、ひょろっとした体つきを見て、『ここは電車の寮じゃないよ』と三年先輩にあたる豊田泰光さんは言ったそうだ。…電車の運転手になる若者と勘違いした豊田さんも、…昭和三十年代の日本にはいろんなヒーローがいた。…男の子は『赤胴鈴之助』や『月光仮面』の漫画…大人たちは力道山の街頭テレビに群がった。『鉄腕稲尾』の黄金期が生んだ『日本シリーズでの三連敗後の四連騰・四連勝』は、…『きゅーばん、ピッチャーいなお、ピッチャーいなお、せばんごう、にじゅうよん』…

平成十九年十一月十三日に稲尾和久さんが亡くなられた時に、同窓会幹事、高校時水球部で逆三角形だった服部君が言った。「頑丈な稲尾さんでも七十歳で亡くなられたのに、俺たちゃそん時にゃどげんしとうとかいな。」蓋し名言だと当時も思ったが、再来年数えの七十を迎える身にとってつくづく実感する今日この頃だ。

 

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