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歌は世につれ、世は歌につれ

 投稿者:寄川  投稿日:2017年11月12日(日)22時16分30秒
  大連駐在の帰郷時にお袋に言った、「五歳と三歳の娘が会社から貸与されとうカラオケで歌うとは、「『…人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの…いまかがやくのよ私たち いまとびたつのよ私たち…。』参っちゃうよなー。」
お袋応えて曰く、「お前も同じん年ん頃は*『お富さん』ば、よう歌っとったばい。」
*『お富さん』 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の洗い髪 死んだはずだよお富さん 生きていたとは お釈迦様でも知らぬ仏の お富さん エッサオー 源冶店…かけちゃいけない 他人の花に 情けかけたが身の運命 愚痴はよそうぜお富さん せめて今夜は さしつさされつ 飲んで明かそよ お富さん エッサオー 茶わん酒…

最近、新天町で*『三橋美智也民謡ベスト CD二枚組』と**『想い出の流行歌 1964年』を買った。
*三十曲中、九州の民謡は黒田節、刈干切唄、鹿児島おはら節、炭坑節、ひえつき節、五木の子守唄。
**明日があるさ、アンコ椿は恋の花、君だけを、愛と死をみつめて、君たちがいて僕がいた、皆の衆、東京の灯よいつまでも、お座敷小唄、あぁ上野駅、学生時代、ウナ・セラ・ディ東京、ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー、東京ブルース、夜明けのうた、柔、幸せなら手をたたこう。

写真1)昨年10月22日第13回21回生同窓会後、二次会のカラオケスナック「風子」にて
写真は中村、小西、木村、瀬戸口、熱唱者は秋月藩の末裔としての矜持を抱く行實。
*「男はつらいよ 寅次郎紙風船」で、秋月がロケ地、音無美紀子、岸本加世子がマドンナだ。
*当店常連の愛唱歌は、稲永「赤いハンカチ」、大浦「俵星玄蕃」、木村「サライ」、小西嬢「愛のままで」、田所嬢「旅人よ」、福嶋「昴」、寄川「あぁ上野(大連)駅。」

写真2)中国共産党幹部、故周恩来首相等の避暑地、大連棒垂島にて。ハンガリーアンディ家族と我が家族。
日曜日の一時の夜、日本酒は日本の価格の四倍もするのでアルコール度数60度の当地の白酒を生で、或いは低価格のバーボンFour Rosesを味わいながら、カラオケで娘たち「人生いろいろ」、筑後の嫁さん「時代 …喜び悲しみくり返し…旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を…」、小生「無法松の一生 度胸千両入り」で安らいだ。

写真3)瀋陽(旧奉天)駅で親父、家族と
棚田君が、10月17日付のe-mail「防衛省」でお父上の海軍等を語っていた。
小生の親父は、五男二女の一番下だ。五男全てが上海事変から太平洋戦争まで参戦している。終戦間際に長男と四男が海軍で戦死した。親父は陸軍で、満州帝国とソ連の国境沿いに参戦した。大連から当地迄、往復一週間はかかり休みが取れないので、一泊二日で当奉天(現瀋陽)を案内した。
三女二男の長女のお袋は、叔父が長崎大学の理学部の研究室で学生達と、奥さんと息子二人は家で被爆して即死。原爆投下の翌々日、福岡から安否を尋ねに行ったお袋の従兄も、その後終生難病と闘う。もう一人の叔父は、シベリア抑留のほぼ最後の帰還者で、本当に優しい人だったが60歳前後で亡くなった。
 
 

福岡Hawks優勝に思う

 投稿者:寄川  投稿日:2017年11月 5日(日)13時20分9秒
  「福岡Hawks優勝に思う。」
昨夕福岡ドームでの第六戦、小生は天神のソラリア西鉄ホテルでの中学全体同窓会に参加していた。司会者が二回の裏に松田のホームランで1-0を案内した途端に、700名前後の参加者全員が「ワーッ」と言う雄叫びとなった。五回の表ホームランを打たれ同点になったアナウンスをしたら、皆水を打ったように静まり返った。ホテルでは、日本酒を提供しないし寿司・そば以外は脂っこい料理ばかりなので、式途中だが酒豪四人で仲間達と別れを告げて大名の角打ちに行った。若い人が多く飲みに来ていて、3-1のTV中継に静かに見入っていた。九時閉店なので、重苦しい気持ちで帰宅したら、九回裏3-2だった。バーボンのストレートを飲みながら、TV実況の結末を苦々しく味わうことになるなと思っていた。ワンアウト後、内川が起死回生のホームランで同点として敵の流れを止めた。後は、押せ押せで川島の適時打で優勝と。娘と何回も大きな声で万歳をした。今朝までに、何度となく優勝の場面を見ているが、感動は尽きず。
活躍した内川・今宮、川島は大分、長崎出身。敵方の横浜で目立った、濱口・宮崎、今永もやはり佐賀、北九州出身の九州男児・人だ。最優秀選手のサファテは日本球団の3球団目だが、熱い・厚い九州・福岡の地に男気を感じている。張本さんが『喝』で「第五戦は工藤監督の采配ミスがあったが、このチームは苦難の時に明るく団結する素晴らしいチーム」と褒め称えた。小生、50歳で故郷福岡に転勤させて貰って以来、常に九州・福岡の熱い・厚い土地柄を改めて味わえて幸せであり誇りだ。
福岡Hawksと言えば、やはり西鉄ライオンズを想う。小生、数多くの無料講演会を拝聴したが、感銘を受けたのは美輪明宏さんと稲尾和久さんだ。約20年前の稲尾さんの講演会で今も憶えているのを五つに要約すると以下の通り。
◎小中学の折に、父親と夜一本釣りでの生計の為に、櫓をこぐとともに舟に石を積んで別府湾に投げて肩を鍛えた。
◎早朝、釣った魚を料亭に出した。貧しかったので母親が残った骨を貰ってき来て粉砕してふりかけにして食べた。お陰で骨太の身体に成った。
◎同期のエリート小倉出身畑の契約金はテープにうず高く積まれた。他方、家で提供された契約金は薄っぺらだった。貧乏だったので、母親が初めての大金に大喜びした。畑に闘争心を燃やして親に恩返しをしようと決意した。
◎最初はバッティング投手から始まった。当時は、身を守る防御ネットがなかった。豊田泰光さんのバッティング投手の時に、豊田さんが休んでいると思い、自分も休もうと思い程々或いはボール球を投げた。そうすると、物凄い命が縮むピッチャー返しを打たれた。豊田さんとは、一球も気が抜けない真剣勝負の緊張の中で、針の穴を通すコントロールを磨けた。
◎王さんは真面目で考え抜く人なので対応し易かった。長嶋さんは、こちらが考え抜いても打たれる。或る日、長嶋さんは動物的天性と宇宙人で何も考えていなくて、対処方法を考える事が無意味だと悟った。それからは、球を離す瞬間に、長嶋さんの動きを見て対応したら打たれなくなった。野村さんが一番の強敵だった。あの人は、九回全ての戦局を考えていた。流れの無い所で三振を取った球種を大事な局面で同じ球を投げたら、ホームラン・強打された。大事な場面で、わざと打てなかったと見せた球を投げさせて勝利に導いた。凄い人だと。

*『鉄腕伝説稲尾和久 西鉄ライオンズと昭和』 西日本新聞社 2007年12月3日発行 952円+税 から抜粋
「福岡市・唐人町にあった寮の玄関に唐草模様の風呂敷包みを提げて立った青年の、ひょろっとした体つきを見て、『ここは電車の寮じゃないよ』と三年先輩にあたる豊田泰光さんは言ったそうだ。…電車の運転手になる若者と勘違いした豊田さんも、…昭和三十年代の日本にはいろんなヒーローがいた。…男の子は『赤胴鈴之助』や『月光仮面』の漫画…大人たちは力道山の街頭テレビに群がった。『鉄腕稲尾』の黄金期が生んだ『日本シリーズでの三連敗後の四連騰・四連勝』は、…『きゅーばん、ピッチャーいなお、ピッチャーいなお、せばんごう、にじゅうよん』…

平成十九年十一月十三日に稲尾和久さんが亡くなられた時に、同窓会幹事、高校時水球部で逆三角形だった服部君が言った。「頑丈な稲尾さんでも七十歳で亡くなられたのに、俺たちゃそん時にゃどげんしとうとかいな。」蓋し名言だと当時も思ったが、再来年数えの七十を迎える身にとってつくづく実感する今日この頃だ。

 

うどん・ラーメン談義

 投稿者:棚田隆憲  投稿日:2017年10月29日(日)02時00分39秒
  ラーメン談義

今日、突然の土砂降りの中、ネットで調べた、事務所の近くにある、新橋 博多長浜ラーメン 「呑龍」という店に昼飯食いに行った。
小さい店だが、店に入った途端、あの懐かしい豚骨の匂いが鼻をついた。普通のラーメンを頼んで、食べてみると、スープも豚骨の匂いがし、
偽物博多ラーメンのように真っ白に白濁しておらず、適度に濁っていて、高校の頃食べた、野間交差点のラーメン屋を思い出した。
博多出身ではないが、親父が一人で黙々とやっていて、豚骨の匂いの話をすると、「東京の人は、戸を開けて、豚骨の匂いがするだけで、
そのまま戸を閉めて入らない人が多い」と言っていた。街々にある博多ラーメンは 色々食べたが、どうしても若い頃食べた博多ラーメンの
味や匂いでなく、それらしい まあまあのラーメンばかりだったが(ちゃーらん)、久し振りに故郷のラーメンを彷彿とさせる味に出会った。
と言う事で、メールをしてしまった。

棚田隆憲

おはようございます。
ほう、旨そうなラーメン屋ですね。店の前での匂いで味が決まるよね。(時々裏切られるけどね。)是非行ってみます。親父が1人で黙々とやっているというところに引かれますね。
私がお気に入りなのは、高鍋君の会社がある近くで、水天宮前から歩いて100m位の処の「しばらく」という店と高田馬場駅から少し奥に入った博多ラーメンの店がまあまあかなと思っています。しばらくは、西新が本店だったかな?

福嶋史憲

この話題では議論がはずみますね。
福嶋君の言及する(高鍋君の会社がある近くで、水天宮前から歩いて100m位の処
の「しばらく」)は私も高鍋君に連れられて一度行きました。あの独特の匂い
(云うならばうんこ臭い)の源はつまる処、調理前のスープ食材の洗浄とあく抜
きにあるのではないかと感じておりますが、諸兄の見開は如何に?徹底して洗浄
し、あく抜きをすればあの匂いは薄まるのは自然かと思うが。我々福岡で育った
身はあの匂いに子供の頃から馴染んでいるので、只気にならないだけなのではな
かろうか。

高山 健

50年以上も味を忘れず、豚骨一筋、ギネスもんタイ。

東京人には、この「豚骨味」に、なかなか馴染めンらしか。

博多では売っている「うまかっちゃん」が東京では、なかなか手に、はいらんと。

「しばらく」には、行きそびれ。次回、是非挑戦、

4日前、祭りで「焼き鳥」1500本焼いたら、体じゅう、焼き鳥のニオイ。

そばに寄ったら、クサかバイ。多田

言うたっちゃしょんないが暑かね!!

さらに暑くしてくれるラーメン談義。だまっとれんけんご報告します。

一昨日、ライディングの途中で大森の名前を忘れた博多ラーメン屋さんで

久しぶりに博多ラーメンを食ったばっかりやったので、勿論替え玉をしてね。

スープは今一やったが、麺は本当に懐かしか味やったばい。「しばらく」は

賞味したけん今度は、「呑龍」にチャレンジしまっしょう。

 暑かっばってん、風邪ひったりしとう人が多かけんご自愛の程を。  草々



添田

高鍋です。
ラーメン論議に遅れて参加です。

話に出ていた、会社の近くの浜町の「しばらく」の追加情報です。

聞いた話によれば、「しばらく」の関係者が、朔さんの附属中学時代の同級生らしく、朔さんが浜町の「しばらく」に現れると、メニュー外の「水炊き」が出てくるそうです。

ただしこれは、本人に確かめていないので、都市伝説かもしれません。

高鍋



美味しい博多ラーメン屋の 秘伝の水炊きなんて、聞いただけで、よだれ! 都市伝説で無い事を願う。
朔君の高校の同期という理由では、都市伝説は現実にならないかな?

棚田隆憲

うひゃー! こげな反応が直ぐに返ってくるとは想像しとらんやった。
一度 筑志会でも 博多ラーメン談義をやって、ラーメンツアーでも企画せんと、納まらんやろーね。
「しばらく」「大森のラーメン屋」「呑龍」 なんか筑志会のタベログが出来そうやね。
私のお袋の親族が(お袋も)、満州からの引き上げ後、中華料理店、ラーメン屋、餃子屋など、皆やっていて、
私も小学生の時 よく仕込みを手伝ったけん、高山君が言う事がよう分かるとよ。
高山君が言うように、骨の洗浄が肝要。骨に余計な身や雑物が付いていると、2-3日グツグツ煮ている最中に、
一緒に入れた野菜の切れ端も相まって、強烈な匂いを発してくる。だから骨を綺麗に洗浄して、骨の髄からだけの
出汁で、野菜と煮込むと、あの博多ラーメンの匂いがする、と叔父から教わった。叔父のラーメンは美味しかったばい。

私は 生まれ育った、同様の北九州ラーメン、筑豊ラーメンも好きです。博多ラーメンとはちょっと違うが、同じく豚骨。

確かに 我々はあの匂いに慣れているから気にならんだけかもしれんけど、くさや、中国の臭豆腐、ベトナムの
ナンプラなど、臭いはキツイが、味だけはこれに勝るものはないと感じさせる食べ物が世界に沢山あると思う。

博多人の博多ラーメン談義は尽きないな。
その他 コメントが有ったら一杯くれんね! まとめて筑志会のラーメン談義として、九州の仲間に発信しよう。
また 談義が広がるかもしれけんね。

棚田隆憲


うどん談義
今日新宿で午前中仕事を済ませ、昼食に 急に うどんが食べたくなった。街をウロウロしたが、目当てのうどん屋が見つからない。私が急に食べたくなったのは、あの博多の福ちゃん、英ちゃんうどんなどの、かつおとイリコで出汁をとった、薄口しょうゆの汁と柔らかい麺と、東京ネギではなく、小ネギが入った、すこし甘めを感じる、あの懐かしいうどん。 街には蕎麦屋は多いがうどん屋はめったに見当たらない。有っても、あの醤油で真っ黒な出汁のうどん。蕎麦屋でうどんを食べたら、そばの出汁でうどんを出してくる。閉口! 結局 目当てのうどんは30分うろついても見つからなかった。残念と言うより、悲しくなった。 昔東京八重洲の地下街に 博多うどんの店があって、ゴボウテンが入ったうどんは 懐かしくて涙が出るくらいだったが、通っていたので、料理長に特別に「底に狐の油揚げを敷いて、その上にうどん、そしてゴボウテンを置いたら、その上から汁をかけてもらう。最初はゴボウテンに集中、次に鉢に入った小ネギを入れ、うどんを食べ、その後、底にある油揚げの甘さが混じった汁で、残ったうどんを平らげる」という趣向で作ってもらい、それが私の定番だった。今はその店はもうない!関東の人間には、あの博多うどんの味は合わないのだろうか? 関西のうどんは 似ているが 博多うどんではない。 仕方がなしに、蕎麦屋で980円のざるそばを食べたが、味が濃くて、蕎麦湯をいれて食べたら、店員が不思議そうな顔をしていた。ウズラの卵でもつけてくれたら、味が少しは丸くなるのだが、、、、 この悔しさは、尾を引く。暫くは あの博多うどんを求めての、放浪の街歩きをしそうだ。 だれか美味しい店を知っていたら、教えてくれ! 悲痛な叫びです。
 
棚田隆憲
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おはようございます。
そう言えば最近は東京で博多うどんを食べてないですね。そうですか、東京駅は無くなったんですね。南口の方で食べたような気がしますが。有楽町の交通会館のところでも食べたような気がします。うろ覚えですが。やっぱり博多にきて食べたほうがよかよ。( ^∀^)

福嶋史憲
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おはようございます。<o:p></o:p>

有楽町交通会館地下の「よかよか」はいけるばい。東京駅の地下の「博多うどん」がなくなってからは、もっぱらここ。<o:p></o:p>

それと、博多うどんではないけれど、麻布十番の「くろさわうどん」も薄味でおいしか。黒澤明の息子がやりよるらしか。黒豚カレーうどんが名物とか。確かに黒豚は美味かった!<o:p></o:p>

 田中昭雄
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うどん談義故、初めて投稿します。

私は帰福すると必ず博多ラーメンと因幡うどんを食べます。

東京八重洲地下街の博多うどんが閉店した後は、

偶然にも近所に開店したウエスト店(福岡市が本拠)で我慢しています。

関東風に味付けは変えていますが結構美味い・・・ネットで調べて下さい。

今日は、これから佐倉市民体育館へスポーツフェスタに出かけます。

学生時代やった応援団長のまねごとを再現します。

上手く行くか心配です。
太田

棚田君へ

ネットで見てたら、恵比寿の「イチカバチカ」という店に今度行ったみたいと思っています。ごぼうと肉が入ってるうどんがあるみたいだね。興味津々です。( ^∀^)(^-^)

福嶋史憲

棚田さん

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東京駅地下街の「博多うどん」、

そこが営業していたころ、たまたま、

私の職場が近くに有ったので、

良くかよったものでした。

東京人には「透明のスープ」が、合わないようで。

食文化の違いを感じます。

「うどん」も「そば」もスープが同じ、

東京人にとっては、

「うどん」も「そば」も同じタイ。

多田


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玄海島ウォーキング

 投稿者:稲永  投稿日:2017年10月29日(日)00時14分22秒
   8月から始まった「博多街歩き」、毎週火曜日に寄川・稲永の二人の案内で2時間ほど歩きます。ひと汗かいて美味しくお酒を飲み消化するスポーツだからかなりの早歩き。故郷に帰ってきた高木も足取りも軽く久しぶりの博多の街を楽しんでいます。(お酒は少量) かたや時々参加する福嶋と高田は足取りが重くついていくのがやっと。老化防止と健康のために無理はしないのがモットー。(年上の高齢者には早いと言われることもある程度)
 10月24日(火)は寄川・稲永・高木の3人で博多湾の北に位置する玄海島へ。天神から博多ふ頭へ歩き、福岡市営渡船で渡り一周約1時間の小さな島を見学。帰りに博多ふ頭で生きのいい魚で飲食、博多の魚と酒これも老後の楽しみじゃなかろうかね!
写真 1:福岡市営渡船、2:南側から入港時の玄海島、3:海蝕の洞窟、
 

玄海島ウォーキング

 投稿者:稲永  投稿日:2017年10月29日(日)00時13分3秒
  4:島の中腹からの港、5:島の北側の打ち上げられたプラウチックゴミ、6:小鷹神社。
 

歩け歩け故郷福岡

 投稿者:寄川  投稿日:2017年10月11日(水)15時33分38秒
  7月初旬から、毎週一回、真っ昼間の酷暑・炎暑・残暑の中、稲永・高木・高田・高本・福嶋・寄川で、故郷福博の町を「福岡コース」「博多コース」と交互に二時間の速足散策を享受している。
◎福岡二時間コース
起点福岡天神/大名/赤坂/堀端/大濠公園二週/福岡城跡/平和台球場跡/終点大名角打ち
◎博多二時間コース
起点福岡天神/博多冷泉町櫛田神社・万行寺/博多御供所町東長寺・聖福寺/博多大浜町万四郎神社・博多貿易港/博多奈良屋町豊国神社・上須崎追い山廻り止め/終点天神角打ち
*毎年7月15日4時59分スタート、博多山笠追い山コースが基本
「酒をたしなむ」の高木・高田・福嶋は身体を鍛えることを主に、”酒鬼”の稲永・寄川はゴールの一杯復一杯を目指して歩け歩けだ。言うまでもなく、故郷福岡は都心から間近に大自然、悠久の歴史、往古を物語る数多の遺跡、安くて美味しいのが当たり前の飲食、九州男児に九州女の熱き・厚き人情、素朴で明朗快活な気質…最高この上なし。
因みに、小生は同様に週一回、中学の仲間と母校西新・百道を基点に次の二コースを満喫している。
◎博多湾・唐津街道二時間コース
起点西新/百道浜/室見川/愛宕神社/愛宕浜/小戸ヨットハーバー/唐津街道姪浜宿坊…藤崎・高取・中西・西新に連なる現商店街通り/終点西新角打ち
◎城南線・博多湾二時間半コース
起点西新/城南線/護国神社/福岡城址/堀端/西公園光雲神社/福浜/伊崎漁港/福岡球場/百道浜/サザエさん通り/終点西新料亭

故郷の過ぎ去りし日々を偲び、今を楽しみ、ラストランを健やかに、そして来世も又故郷福博の町を、と歩む。

写真1)博多貿易港、中二迄生まれ育った我が故郷
 真ん中奥の朱色のモニュメントは「博多港引揚記念碑」。139万人の引揚者を迎え入れ、約50万人を故国に見送った。
 「犬神家の一族」の映画で、実録博多港引揚者の皆様が艀(はしけ)に下船して故国日本の地に踏み入れる場面を見た時に、中二迄日々接して遊んでいた艀の歴史の重みを改めて感じた。
 *『博多港引揚』図書出版のぶ工房 平成23年12月24日初版 2,200円。 『進駐軍が写したフクオカ戦後写真集』西図脇出版 昭和58年4月24日初版 1,800円。
写真2)百道浜より、左から愛宕浜、糸島半島、能古島を望む
写真3)博多御供所町、大浦匠社寺建築社建立の寺社巡り「人は一代、名は末代」の一つ
   左から、大浦・稲永・小西姉妹・寄川・中村・木村
 

燕(つばくろ)・常念岳 縦走

 投稿者:大浦  投稿日:2017年 9月25日(月)21時14分14秒
  29年8月12日から北アルプス標高2763mの燕岳に単独で行きました。
12日 博多~(新幹線)名古屋~(JR)松本~JR穂高駅~中房温泉   旅館泊まり
13日 中房温泉 登山口(1470m)~燕山荘~燕岳(2763)~燕山荘泊まり
14日 燕山荘~大天井岳(2922m)~常念小屋泊まり
15日 常念小屋~一ノ沢 登山口(1220m)~JR穂高駅~松本~名古屋~博多
孫の可愛さに負けて先延ばしになっていました、6年ぶりの北アルプス
体力の衰えを感じながらも 雲間に槍、穂高、立山、剣岳とたまに見えて、嬉しい縦走でした。
又燕岳の美しさ、時期は過ぎていましたが高山植物の女王といわれるコマ草の群生に出会いました。


写真 NO 内容
(1)登山口 秘湯中房温泉にて 丁度インド奥地にいるヒンズウー教の聖人みたいな人が居たので一緒に写った(聞くと日本人で神奈川から来たとの事)
(2)登山口 秘湯中房温泉にて
(3)燕岳途中 山小屋でスイカを食べる 生き返るように旨かった
 

燕(つばくろ)・常念岳 縦走

 投稿者:大浦  投稿日:2017年 9月25日(月)21時11分43秒
  上から
(4)コマ草
(5)燕岳小屋より燕岳を見る 北アルプスの絶景でした。
(6)燕岳山頂にて
 

燕(つばくろ)・常念岳 縦走

 投稿者:大浦  投稿日:2017年 9月25日(月)21時10分22秒
  上から
(7)燕岳山頂にて
(8)燕岳山頂にて
(9)常念岳への縦走路
 

燕(つばくろ)・常念岳 縦走

 投稿者:大浦  投稿日:2017年 9月25日(月)21時08分54秒
  上から
(10)常念岳への縦走路 槍ヶ岳、穂高連峰が見える。
(11)常念岳への縦走路 穂高連峰が見える。
(12)大天井山頂にて 槍ヶ岳がカッコイイ
 

国際人

 投稿者:棚田隆憲  投稿日:2017年 9月18日(月)23時27分11秒
  いやはや、これだけ持ち上げられては、入る穴もない。少し訂正させてもらいます。
1.心身ともにタフである。
  確かに、これだけは自信もってそう言える。初めてのアメリカ、初めての東南アジア、初めての台湾、そして始めての中国。どれも臆する事はなかった。ただ20年前の中国は、臆するより呆れた事ばかりだった。
2.家族の全面支援
  これについては、付かず離れずで、仕方ない諦めかと思っている。
3.当該国の飲食を享受できる。
  どこの国に行っても、食べ物飲み物は美味しい。食べれなかったものが少々。大連での
黒と黄色の縞々の虫。犬の肉(家で犬を飼っていたので)。広州では蛇を食べてしまったが、、
会社の者達が、外国に行って直ぐ日本食を食べに行くのに閉口、と言うより、開いた口が塞がらなかった。外国のあの不味くて高い日本食を何故好んで食べるのか?一種日本人の悪い癖で、外国に行っても、何でも日本流で通してしまう。仕事も日本流を押し付けてしまう。これでは、本当の意味で、日本は国際的になれない。インドネシアで食べた、ヤギの立方体切りの骨ごと、ヤギの乳でん煮て、塩を加えたものを、肉をしゃぶりながら、ネシアのビンタンバルー(ビール)で食事した時が、今でも忘れられない。
4.当該国の風土風習に馴染める。
  風土風習に馴染めて、初めてその国の国民性、民族性が分かる。最低限の民族の礼儀だけは守らねば、日本人は浮いてしまう。ただ一つ、宗教的な風習には、礼儀を払うが、馴染む事はない。無信教の私が、見てくれだけで宗教的な風習に馴染んでしまえば、それこそその宗教にとって失礼な事だと感じている。
5.基本的外国語が出来る
  基本的に 私が問題なく出来るのは英語だけ。それも最近あまりネイティブと仕事しないので、ヒアリングがダメ、発音がアジアン イングリッシュになってしまっている。先日20年ぶりにアメリカの昔の仲間にあった時、お前は英語がアジアの英語になってしまった、と笑われた。仕方がない、アジアでの仕事も基本的には英語でやっているので、アジア各国の独特の英語を上手くこなしてゆかないと、仕事にならない。しかし、仕事はアメリカのほうが 白黒はっきりしていて、一番やりやすい。
その他の、中国語や韓国語などは、基本的に「夜」か昼の街の中でしかしゃべらない。どれも、カタコト程度。中国などはせっかく発音覚えても、地方に行くと通じない。そこでまた地方の発音を覚える。それもその地方の酒と料理を楽しみながら。
中国で仕事し始めた頃、同じ目線で労働者と仕事して、飲んだとき、ボスの工場長から、「貴方は日本人ではない、日本人はそんな中国人と同じ目線で仕事しない。日本人は皆 上から目線だ。それをしない貴方は 無国籍の国際人だ」と言われて、舞い上がって飲んでしまい、ぶっ倒れた事があった。若かった。その工場長とは今でも付き合いがある。
昨年引っ越した時、荷物を整理していて、最初の時のパスポートから取ってあって、数えたら18冊有った。最初の頃は 殆ど米国と香港、韓国。懐かしい時代だ。
これだけ長年海外で仕事してきて、今更ながら悔しいことがある。それはそれぞれの国の、名所旧跡を知らない事だ。時間が無かったと言うのは言い訳になる。時間は作れるもの。しかし時間を作らなかった。だから、港か仕事の現場か街か飲み屋しか知らない。ただ人々はどの国も知っている。
しかし、しかしである。最近はやはり漬物、お茶ずけが恋しい。歳とともに 故郷の博多ラーメン、おきゅうと、うどん等々、追い求めるものが変わってきた。中学の仲間と話していると、自然と博多弁になってしまう。それも昔の博多弁。今の若い人達は 喋りきらんやろう。先日九州の叔父が訪ねてきて、しゃべったら 完全に博多弁に戻っていた。不思議に 東京にいる同級生としゃべっていても、少しは博多弁が出るが、完全には出来てない。譜代の寂しさを分かるかな?親藩の連中は。それでも 博多人としての気構えは忘れ取らんぞ。
 

国際人

 投稿者:寄川  投稿日:2017年 9月 4日(月)09時10分10秒
  海外駐在員としての資質としては、一般的に下記の順で必要とされている。
1. 心身ともにタフである。
2. 帯同、否にかかわらず家族の全面的支援がある。
3. 当該国の飲食を享受出来る。
4. 当該国の風土風習に馴染める。
5. 基本的外国語が出来る。
望むべくは、異郷の地ましてや異国の地で、最も疲れが取れるのは生まれ育った言葉を喋れる。即ち、伴侶が同郷である。
*1~4の資質があれば、5の外国語も含めて調整・率先垂範・順応能力等が必然的に備わっている。5が優秀でも逆は必ずしも真ならずと言われている。

 地元福岡で、親藩(故郷不動組)、譜代(故郷帰還組)のOB・OGが集まって酒のつまみに、自他共に認める「カバさん」こと棚田君の話題が出る。顔は超domesticなのに550名の卒業生の中で一番のinternationalやねと。若い時は、現地の人に勝るとも劣らないAmerican Englishで米国を中心に縦横無尽に駆け巡った。その後は、英語の次に喋れる韓国語、そして実践中国語、今は生活タイ語等を駆使して、東南アジアへと事業を展開している。当人の上記の1~5の天性と、加えて人格形成期を北九州・東住吉で逞しく生き抜いた、正に「海賊と呼ばれた男(顔)」の面目躍如だ。
 高木君、今年の5月末、タイでの3年間の駐在生活(勤務地はバンコクから90kmの大工業地区の往復、車で往路90分・復路2時間)を終えて、柏崎・九段下・熊谷に残留せず、終の棲家は故郷福岡へと戻ってきた。インド、カンボジア、イラン、ベトナム等の名所旧跡へも旅した。

写真1)40歳大連駐在時自宅前
外大英語学科3年生の我が家の家庭教師と娘達
1m70cmの典型的大連美人から、週一回嫁さん・娘達は中国語を学ぶ。小生は、中国の小学校高学年用歴史教科書を英語に訳して習った。
*中国語は、部下に外大日本語学科卒の優秀な3名がいたので、一日中ほとんど喋らないことも珍しくなかった。彼女達等の派遣元と人事評価・契約更改、賃貸料等の更改時には、通訳なしの一対一で交渉した。大事な数字は間違いが許されないので筆談で確認した。他方、英語関係は小生の対応となった。American School設立意向の際にも、何故か小生が日本人駐在員の窓口兼通訳として博多大浜弁Englishを喋らざるを得なかった。

写真2)森野君の挙式で校歌合唱
左から、寄川・前田先生・石内君・新郎新婦のESS倶楽部部員OG。
小生にとって、筑紫丘のinternationalとは前田・篠田先生主催の夏期特別講座・原文でのGeorge Orwell ”Animal Farm”。平山先生「世界史」で黒板一杯に上手な世界地図を描かれて、日露戦争のバルチック艦隊の出発、大遠征から連合艦隊との「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」までの二三カ月に亘る講義、すなわち「坂の上の雲」講談だった。

写真3)高校グラウンド
左から、永田・故鹿毛・土居・寄川・牛島・外園剣道部同窓生。
練習後、田中先生・先輩達の桁違いの馬力とスタミナに圧倒されて、疲労困憊の面々。
 

夏休みに入ります

 投稿者:藤岡 良幸  投稿日:2017年 8月 9日(水)15時35分56秒
   東筑紫短期大学での教鞭も今年で4年目を迎えています。8月11日から約1か月間の夏休みに入りますが、施設実習・保育所実習先の巡回訪問等があり、この間、10日ほど出勤します。6月3日にあった高校創立90周年記念同窓会には参加しましたが、21回生は少人数でしたので、この期間中に皆さんが集まる機会がありましたらお知らせください。  

離合集散

 投稿者:寄川  投稿日:2017年 7月24日(月)16時48分39秒
編集済
  米国人John・P・Ordway(1824~1880)のDreaming of Home and Mother(家と母を夢に見て)の歌を犬童球渓(いんどうきゅうけい 1879~1943)が自由訳したのが『旅愁』
更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む 恋しや故郷 懐かし父 夢路にたどるは 故郷の家路 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む

李叔同(1880~1942)が、1905~1910年日本に留学中に『旅愁』を聴いて作詞したのが“送別”
長亭外、古道辺 芳草碧連天 晩風拂柳笛声残 夕陽山外山
天之涯、地之角 知交半零落 一觚濁酒尽余歓 今宵別夢寒
道の駅のはずれ、古びた道。…夕日が、山の向こうの山に沈む。天のはて、地のはてに散り散りとなった友人達は、半分、零落してしまった。せめて一杯の濁り酒で楽しみを尽くすとしよう。今夜は、別れの夢を見て、寒々となりそうだから。
*「蛍の光」とともに卒業式の曲目の一つ。同窓生との酒宴で、特に男子が高歌放吟する愛唱歌。

“城南旧事(北京の想い出)” 1983年の名画、主題曲が”送別”。主人公の英子役で出演したのが当時10歳の沈潔。1992年に高校卒業と同時に日本語の勉強のために来日して、NHKラジオ・TVの日本語講座に出演等を経て、日本女子大学人間社会学部社会福祉学科教授に就任。
*城南旧事”の原作者は林海音(1918~2001 幼名は英子) の子供時代から青年期を過ごした北京城南での想い出。
1918年大阪に生まれる 1921年台湾に戻る 1923年北京城南に定住 小学・中学・専科学校…を過ごす 1948年台湾に戻る 2001年死去

写真1)台北市内の”杭州小籠湯包店”にて
 昨年7.14~16 台北二泊三日の「ゴージャス旅行」 飛行機ビジネスクラス・五つ星リーゼントホテル・タクシー・全て有名高級店で食事…
稲永夫婦・木村夫婦・小西嬢・関家族・寄川参加。

写真2)浮羽の 紅乙女醸造所にて
 今年6.10~11 原鶴温泉「泰泉閣」一泊二日美酒佳肴の旅。
夕食時に地酒と馳走を味わった後、部屋で持参の名酒日本酒・ワイン・ビール等を浴びるほどに堪能した。
稲永・小西嬢・関親子・高田・高本・田所嬢・福嶋・寄川参加
旅の終わりから約一ヶ月後の7月5日に、車窓から眺めた緑豊かな朝倉の地が大災害に見舞われるとは。哀悼の意、出来る範囲での見舞金で慰藉の意を表する。娘が関係者の所で微力ながらvolunteerとして、固くなった泥土を取り除く作業を手伝ったことに、”辛苦了!”

写真3)山口 瑠璃光寺五重塔にて
 大学時代に小島君(写真手前)の運転で、山口に居た角君(同後方右)を訪ねた。
40年後、退職前の二年二カ月を山口・宇部でお世話になるとは。地方の厚い人情と名酒の良き想い出の地となった。写真の瑠璃光寺は、「英雄の往来した萩往還マラニック大会」の一番楽な「歩け歩け35km 山口萩」の起点で二回参加したのを含めて六度訪れた。
 

増田夫妻写真展

 投稿者:高田  投稿日:2017年 6月10日(土)10時50分27秒
  5月24日、増田俊次・哲子写真展「帰依」第42回2017JPS展「文部科学大臣賞」受賞記念に行ってきました。ソニーストアで開催された展示会はパネルとディスプレイを使った写真のスライドで演出され、映像は増田君愛用のソニーの一眼レフ写真を見事に再現、大型のディスプレイで美しく表現されていました。
本年度の頂点に立った写真を見ようと来場者も多く、対応に追われる夫妻にお疲れ様です!
21回生の来場も多かったと聞いています。僕も偶然久しぶりに会った高木君でした。

これからは増田君を写真家増田君と呼びましょう!
 

1989年(平成元年)6月4日天安門事件

 投稿者:寄川  投稿日:2017年 5月30日(火)23時50分56秒
  故郷に居るとハプニングは年に一度有るかないかだが、風俗文化の違う異国では、日々ハプニングの連続だった。
「大連に足を踏み入れた翌日、一番の繁華街中央通り(旧浪速町)を訪れた。通りの真ん中に、性病予防と初夜・性交時は要清潔のスローガン・説明・病例写真の大きな立て看板がいくつも目立った」「大連金州白酒、アルコール度数60度での乾杯復乾杯…。酒宴を通して、親交を温めて人間関係を作り物事を円滑に遂行させる”人治主義”は、小生には”法治主義”より遥かに向いていた。但し、60度の白酒を盃30杯前後飲まされて、年に二回は帰宅後便器を抱いて寝る羽目になり動けなかった。結果は四日酔い」「烈酒60度の”人治主義”。毎度、酒宴の席で三杯飲み干して中国に良く来た、五杯で受け入れてやるか、十杯で付き合ってやるか、二十杯を超えて人事不省に陥り良き友達になれるなと。九州男児・無法松・博多大浜っ子の矜持で飲み干し続けた。身体がでかく豪気で人情味のある北方人に、九州と相通じる気風に馴染み大好きになった」「泣き崩れる女性が事務所に入って来て、元夫が娘を日本へ連れ去ったので探して欲しい」「邦人が事務所を訪れて、今から朝鮮を世直しに行くので話を聞け」「天皇陛下のご崩御に接しての大連事務所としての服喪、瀋陽の日本総領事館に詣でての弔問記帳、哀悼の誠意を捧げ奉った」「総領事館より、当社は屈強な体育会系(鹿児島・久留米共にラグビー、佐賀バトミントン、小生福岡剣道、広島柔道)社員がいるので強制送還者を護送して欲しい」「検疫から、コンテナに日本脳炎を媒介する日本の蚊が入って来るので、今日から検査・消毒費用等を支払え」「税務署から、所得税は日本での給与明細に基付き支払え」「公安から、昨今の治安状況につき総務責任者に召集がかかった。実際は駐在員の買春行為に対しての高額の罰金と永久国外追放された実例での厳罰注意だった」「酔っ払いがタクシーを乗り回して金が無いと言ったら、大男の運転手がスパナで殴って、顔面が血だらけに」「女子高生が同窓生に平手をくらわせて泥水の中に押し倒した」「包丁を持って追っかけるのと逃げるのとの喧嘩」「70kgを超える巨体のおばさんが100kgのがっちりした男に拳骨で殴りかかっていた」「病身の夫に代わってチェコ製の車での白タク女性ドライバー。見るからに気は強い顔立ちだが逆に気質はさっぱりした美人で、腿からスリットのチャイナドレスを着て脚線美での運転だ。宴会後の車は常時彼女を指名して待機してもらった」・・・。毎日が生命力・活力の人間臭さに溢れた体験ばかりだった。北方人は身体が大きくて喧嘩っ早いが、言葉少なく情に厚い”男子漢”で、又有名な大柄の美人の大連で多々良き思い出の地となった。
 ハプニングの中で最大なのが「天安門事件」だった。当日は、東京に出張中で、翌日、急遽駐在の大連に戻ろうとした。昼間、大連上空は雷が被雷していて北京空港に降りた。驚嘆したことには、空港のロビーは海外へ脱出する人達で足の踏み場もない程にごった返していた。その中に、小生が二年前に北京の中国人民大学に派遣留学されていた時、特別に親しくしていた英国の交換留学男子学生、農学部数学科の秀才中の秀才華僑アフリカ人の二人に出会った。久闊を叙するとともに、会社事務所に当事件長期化への備えとした保存用ミネラルウォーター・パン・チップス、持ち合わせの中国元・日本円を渡して永久の別れとなった。当日は、航空機故障のために大連に戻れなくて、翌朝、ホテルからまだ朝明けきれぬあぜ道を、一時間以上緊張の中で歩いて北京空港へたどり着いた。大連に到着して驚いたことに、大連空港も人、人、人で脱出する人であふれていた。北京空港が満杯と知り、列車を乗り継いで来たのだった。この後の十日間は、懸命に脱出しょうとする人達を出来るだけ早く帰すべく、疲労困憊の日々だった。事件後一週間が立ち、関係機関に当社も今後一週間後に完全撤収の旨を伝えた。事件発生後10日も過ぎると、北京の世情も落ち着いて来たし、海外への脱出者も一区切りが着いたので、撤収を取りやめて通常の営業に戻った。大連でも、暴徒が日本人を襲うべく集まっていたと言う話もあった。嫁さんに事件後三日目に子供たちを連れて故郷福岡に戻る様に命じたが、頑固な筑後の女は拒否したので、家・部屋・武器等の防御態勢を整えた。小学時の相撲、中学時の挫折した柔道、高校からの剣道の集大成として、命がけで家族を守ろうとしたのも厳然たる事実だ。日本のマスコミは、「天安門事件」に対して自由と民主主義への弾圧を、他方中国のマスコミは、暴徒による警察官の縛り首、焼死体等実写を連日放映した。小生は、昔も、今も、これからも日本と中国のマスコミは、足して二で割って丁度だと判断している。
 駐在員として、日曜日も日・中の人達との付き合いで年中無休に近かった。日本人に対しては企業代表であり、中国人・外国人に対しては日の丸を背負った象徴としての毎日だった。一にも二にも三にも家族の身の安全を第一に考えた。年に一回の二週間長期休暇も、故郷の実家で一週間は死んだごとく眠り続けて起き上がれなかった。
写真)
① ◎谷開来、写真中央の女性、右隣が著名な水彩画家陳芸、左隣が小生。
1958年生まれ北京人、毛沢東時代の大将軍の娘。北京大学法学部、国際政治学院卒。著名な弁護士として活躍、薄熙来離婚後の二番目の妻。小生大連駐在時、彼女の水彩画の先生陳芸は中国を代表する画家で、小生とも親しく、当画家を通してランチ等二度同席させて貰った。門地、教養、優雅さと全て群を抜いていて、正統派の「お姫様」で本当にお美しい女性だった。
◎薄熙来、1949年生まれ北京人、同じく毛沢東時代の大政治家の息子、所謂”太子党”。北京大学歴史学部世界史専攻。小生大連駐時、大連市長で、春節・国慶節・アカシア祭り・大連マラソン大会・日本人観光客歓迎宴会・日本企業開業式典等、主賓席も含めて何度も同席して彼の流暢な留学英語と小生の博多大浜弁イングリッシュで話を交わした。家門、180cmを超えるハンサムでスマートな身のこなしは、日本人観光客おばさま方のスターでもあった。
今は、前者は英国人実業家殺人で執行猶予付死刑から無期懲役中。「夜叉」の形相へ変貌した。後者は現主席で同じく大政治家の二代目”太子党”習近平とトップの座を最後まで争って敗れて、収賄・横領・職権乱用等で無期懲役服役中。容貌は変わらずの二代目の美男だ。
*詳細は、「谷開来」「薄熙来」で波乱万丈の人生を検索されたし。
②外国人寄宿舎の責任者
  小生、1986-87年の一年間、北京の中国人民大学留学時に、毎日お世話になった寄宿舎事務責任者の北京人。当大学の外国人留学生は約50名(半数近くは日本人、多い順に英国の交換大学生・米国人・独国人・アフリカ人・仏国人・ソ連人等)。彼女から、小生は寄宿舎代表、一例として苦手な男女関係の調停をさせられた、並びに当大学院生の課外日本語授業を担当させられた。中国式弁当をこしらえてくれて、28inch(*日本の男性用は27inch)自転車二台で連ねて”頤和園”円明園遺跡”動物園””北京中心、故宮・天安門”等を案内してくれた。1m70cmの身長に加えて、欧米人に勝るとも劣らない手足の長さでペダルをこぐ美脚は、すれ違う男が皆振り向いた。自宅で、ご家族と二三度北京家庭料理をご馳走になった。
③ 北京動物園にて家族と。天安門事件から10ケ月後、家族を北京二泊三日の旅へ案内した。
大連動物園・北京動物園でも東北虎(アムールトラ)が一番人気だ。虎科最大の威厳ある体形、凛々しい顔立ち、美しい毛並みは見る者を圧倒し魅了する。
 

台北三日間の旅rev

 投稿者:寄川  投稿日:2017年 4月22日(土)22時34分49秒
編集済
  昨年の「台北三日間の旅」は、小西嬢・稲永夫婦・木村夫婦・関一家四名・寄川合計10名での、ビジネスクラス・プレジデントホテル・タクシー・有名グルメ店…等の「ゴージャス旅行」だった。
今年2月18日から20日の「台北三日間の旅」は、稲永・福嶋・寄川合計3名での、エコノミークラス・ビジネスホテル、当地の人が利用する交通機関・大衆食堂・施設…等の正に「道中」だった。どちらも、全く違った想い出に残る一頁になった。
「大陸と台湾の私的考察について」
大陸は北京一年留学、大連三年勤務の他に、仕事等の一環として哈爾濱、長春、瀋陽、蘇家屯、撫順、鞍山、千山、遼陽、本渓、丹東、鴨緑江、金州、営口、庄河、金州、承徳、秦皇島、北戴河、山海関、天津、石家庄、太原、済南、泰安、曲阜、洛陽、鄭州、西安、成都、重慶、上海、杭州、蘇州、無錫、太湖、桂林、広州、深圳、香港、澳門…を訪れた。30年前の当時は、現地で列車・航空・旅館等の各窓口で直接交渉をせざるを得ず、難行の旅そのものだった。
台湾は退職後初めて、大学のクラブの後輩の仕事の関係で連れて貰って以来、毎年当贅沢なお伴を含めて、台北を中心に訪れるようになった。
大陸は、名所旧跡・歴史的建造物、飲食等は、流石に日本の面積の26倍を有するスケールそのものだ。他方、台湾は九州と同じ面積で観光地・飲食等は如何ともし難い。それでも日本人を歓迎してくれる大事な点で最高だ。今旅行もMRT・ロープウェイで席を譲られたりした。我らがその席を小さな子供連れに譲ったら、先に我らに席を譲った人が子供は立って、年長者を大事にするものと親に軽く文句を言っていた。又、ロープウェイの乗車券購入窓口で、我ら若さの自負と僅かながらも「3.11大地震への台湾の最高の募金額」へのお礼として大人普通往復券を求めたら、本来証明書が必要な65歳以上の半額券を微笑んで渡された。拙い言葉で道等を尋ねても、何処でも親切に応じてくれる。正に台湾は、日本の昭和30年代、40年代初頭の頃の優しさにふと戻れるし、毎週土曜朝の「NHKラジオ文芸館選」の人情の機微に触れているようで清々しい気持ちになる。
写真)
① 今年2月18日~20日、稲永・福嶋・寄川三名「台北三日間いで湯の旅」の一風景
② 恒例の5月「大連アカシア祭り」
大連人或いは大連を知る中国人が、福岡は大連と良く似ていて日本で一番好きとは、全く同感。大連は、渤海湾・黄海に面して海洋性の土地柄で、写真の様に芸能界・モデル等を数多く輩出する大柄な美人の産地、人情も厚く、魚介類は新鮮、大海を中心に風光明媚、近代史の跡…。小生にとって大連は福博の町に次ぐ第二の故郷だ。
③ 北京の元上司の家にて家族と。左端は同奥様。
1989年6月4日「天安門事件」の8ケ月後、大連住まいの家族と北京二泊三日の旅をする。

 

「サラバ、又会おうな」

 投稿者:寄川  投稿日:2017年 2月 9日(木)15時34分3秒
  50歳を迎えて待望の故郷福岡への異動となった。早速、転勤5ケ月後に柴犬雌メグ、同1年2ケ月後に娘達が近くの公園から拾ってきた雑種猫雄マオ、同1年半後にポメラニアン雄コロを飼い始めた。*詳細は、HP「我が家のペット事情」参照。
平成23年に、雄猫のマオが9年5ケ月で永眠した。死の間際に、柴犬雌のメグが今迄一度も発したことがない悲痛な叫び声を、家の中で聞いた。案の定、メグが良く面倒を見ていたマオが、親父の形見の30数鉢の盆栽等の一番奥まった木の台の下の見えない所で、虫の息だった。痛みを和らげるべく抱えて病院へ行ったが尽きた。
今月初め、メグが15年半の生涯を閉じた。死の前日の夕方、玄関の前で倒れていた。死去の当日の明け方に、別離に似た雄叫びが何度か床の中で聞こえた。日頃は喧嘩ばかりをしているコロが、ピクリともしないメグに寂しそうな声を出していた。一縷の望みを抱いて病院に運んだが駄目だった。
火葬後、骨壺を自転車の前台に乗せて、いつもは前台にコロ、後台に当メグを乗せて、メグのみを走らせたコースを辿った。先ずは、室見川中流、南端の散歩道が一度途絶える所迄行った。次に、二番目に良く尋ねた愛宕浜の西端岸壁迄向った。最後は、最も良く遊んだ百道浜の東端岸壁迄行って折り返した。百道浜の中程にある無料休憩室で一休みした。バルコニーのテーブルの上に、遺骨と柴犬雌メグと猫雄マオの*写真①を置いた。我が世界一愛する、中二迄生まれ育ち、中三迄毎日傍にあった博多湾、玄界灘を共に眺めた。その後、百道浜の展望台のある東屋のベンチに座り遺骨と写真を添わせて、博多湾、玄界灘を一望しながら、万感の思いを込めて最後の別れを告げた。「来世も又会おうな。一緒に又ゆっくりと博多湾、玄界灘を眺めような。有難う、良か想い出ばっかりたい。サラバ。」
写真)
①故猫雄マオと故柴犬雌メグのツーショット。
冬になると、マオがメグに寄り添って暖を取っていた。来世でも又、メグ、「色男、力と生活力 なかりけり」のマオの面倒と守ってくれよな。
②我が故郷博多貿易港大浜でメグとコロ
③二匹目の猫、チンチラ(ペルシャ猫)雌メイ、日本猫の1.5倍の身体と立派な腕っぷしのかなりのお転婆だ。
神棚に午前中は家族、夕方には小生がメグの弔いの祈りを捧げている時、いつもはじゃじゃ馬のメイが初めて見せる大人しく神妙な顔つきをしていた。
*メイの詳細は2013年10月25日付「生きとし生ける者」参照
 

「1月18日21回生迎春の集い」の前祝い

 投稿者:寄川  投稿日:2017年 1月16日(月)18時09分25秒
  1月11日1730「大名角打ち」に、同窓会三本柱の大浦・小西・服部、及び稲永・寄川が参集した。本来は1830集合だったのだが、服部君が天神での仕事を1700に終えたとのことで、急遽繰り上げさせられた。
平成19年11月13日、「神様・仏様・稲尾様」の稲尾和久さんがご逝去された折に、服部君が名言を吐いた。「鉄腕稲尾さんでも70歳で亡くなっとらっしゃーとに、我らはあと何年元気で生きとらるーかね。」と。
大名の角打ちで全国の名酒を味わいながら、服部君が同窓生のN君を見舞った事と、自己の手術を語ったので自然と健康の話題になった…。大浦君が高校時代の教科書「漢文」を持参した。先般、棚田君が中国より皆にメイルした漢詩に感銘を受けたと。在学中は、漢文を余り勉強せんやったばってん、今ひもといて詠んでいると改めて漢詩の奥深さに酔っとると。
その後、二次会は大名小跡地前のカラオケスナック「風子」に、家路を急ぐ服部君を送って四人で行った。フランク永井の上手な先客を、我ら70代前半と思った。何の何の80有余の満州からの引揚者で矍鑠たる紳士だった。我ら皆、異口同音に80過ぎてあげん無理やねと一致した。2000-2230、ソファーの座席の時計回りの順で、各自の人生観を以下の歌に託しちょった。
稲永君:「赤いハンカチ」「若者たち」「北国の春」「加藤隼戦闘隊」
小西嬢:「愛のままで」「つぐない」「珍島物語」「旅人よ」
大浦君:「女のみち」「そして神戸」「柿の木坂の家」「俵星玄蕃」
寄川君:「ヨイトマケの歌」「あぁ上野駅」「誰か故郷を思わざる」「無法松の一生」
歌の上手いへたいの天賦の才は別として、各者各様に60余年の風雪と想いを歌が物語っていた。正に、「歌は世につれ、世は歌につれ」だった。

写真)
あれから早や50年、一年生時の春合宿或いは夏休み暑稽古、打上げ後の写真。
疲労困憊で、小水するのに本当に痛くて焦げ茶色を呈していたのを、今でも鮮明に覚えている。
 

涌蓋山登ったよ

 投稿者:髙田  投稿日:2017年 1月 8日(日)23時41分36秒
  1月6日筋湯温泉から涌蓋山登山をしたよ。
師匠の行實君が道に迷うことはないとの助言を信じて登山を決心。
ちょっと用事を済ませ筋湯に着いたのが午後1時、宿の主人に聞くと「すぐそこだからごゆっくり」といとも簡単におっしゃる。急いで支度して少しピッチを早くして1時間も登り続けるとさすがにバテました。おまけに残雪と霜で足元が悪いところで3度もすべってしまった。
寒いのを予想していたら汗がたらたら、3時にやっと標高1,500mの山頂に到着、冬日和で素晴らしい見晴らしを暫し一人で楽しみ下山、4時半に筋湯に帰還。安宿の露天風呂に入りビールで喉を潤す心地よさでした。
写真は久住方面、右に九重スキー場、湯煙は地熱発電所、その下に筋湯温泉が小さく見える。
 

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